オレがゲーム誌やファンロードに投稿されたイラストを見て自分を癒していた頃*1は、投稿者が「何の誰兵衛」であるかなんて、本人の自己申告でしか分からなかった。つまり見せたくない所は、意図的に隠せたのだ。その辺に近い事は、下記記事の文末でも書いたが。
しかし今やSNS時代になり、絵を描いた者が「何の誰兵衛」であるかの自己申告の機会がやたらに増えて、個人情報だだ洩れの様相を呈している。自分が「何の誰兵衛」であるかを意図的に隠しつつ、絵を発表出来る時代ではないのかも知れない。そこで思い出すのが亡き友惟任さんの事である。彼は自分のホームページに「何もそこまで」と言いたくなる程の事も含んだプロフィールを作っていた。心配になり、その辺ツッコんだら「今や個人情報を隠し通せる時代じゃないから、先に公開している」と言われた。それはそれでひとつの見識であろうが、オレはまず作品を見せたい。と言いつつ、ブログやツイッターで、自己紹介を延々とやってるけど。それも前述の惟任さんの態度が影響しているが、「まず作品を見せたい」と言う点からすれば、失敗したかも。なんでこんな話をするのかと言うと、SNS時代で絵を描く者から「そんな話、聞きたくなかったな~……」と、三木聡脚本のドラマやコントのように言いたくなる話を聞かされる事が増えたからだっ! どいつもこいつもオレまでも、赤裸々になりすぎおって。だもんで、下記ツイートに同意したくなる。
《内心どう思ってるか分からないけど、とりあえず自分の前では無害でいてくれる人》ってのが好かれる理由も分かる。
— 望月もちぎ(10/30新作) (@omoti194) 2020年9月27日
反論も指摘も、説教もしてこない無口なママがいる店が賑わうのも凄く分かる。
誰でも発信できる時代になったからこそ《何を言うか》より《何について触れない》かも大事なのかもな。
もちぎさんの言う「何について触れないか」うんぬんは、ネットが普及する前の頃『噂の眞相』の別冊における田中康夫と佐高信の対談にあった「物書きは『何を書いたか』より『何を書かないか』から当人が見える事がある」みたいな話を思い起こさせる。前から気になっていた言葉に近いものが、現代に出て来たというか。しかし今のオレには、答えは出せない。話が広がらねえもん、オレひとりで考えても。だが、こうなっていたのなら「絵を通して社会と繋がりたい」と言うオレの考えも、どこまで通用するものかと、またしても青息吐息である。自分が「何の誰兵衛」であるかをPRしてからじゃないと、絵を見てもらえんのかと心配で。
この話、機会があればまたどこかに続く。オレひとりには荷が重すぎる話だと思ったので。
*1:だいたい80年代後半から、90年代前半。