オレは「知らんぷり」「見て見ぬふり」と言うのが嫌いだった。いじめられてた時、周囲のそれに苦しめられたからだ。そりゃ、誰しも自分にどうにもならない事は、そうせざるを得ないにしろ……。とは言え、一方で「知らんぷり」と言うのも、一種の(悲しい)生活の知恵ではないかと思うように。下記ツイートを見ていただきたい。
第4回オタク川柳大賞の神de賞(大賞)受賞作に「聞いてない 誰もそこまで 聞いてない」という作品がありましたが「嗜む」を求める人と「究める」を求める人の認識の違いは事程左様に断絶を生むのでありましょう。互いの世界観を大切にしつつ交流しないという強い意思がないと不幸しか生まないですなぁ。 https://t.co/PLTzJgC0lX
— PAICAL (@paical_sws) 2021年9月10日
このように、言うなれば「俺には理解出来んけど、いいんじゃないの」と言う態度の表明としての「知らんぷり」は、相互不干渉のために要るんじゃないかと思えて。最近のツイッターでの罵倒合戦・煽り・一方的な中傷などで、つくづくそう思った。何でもかんでも「知らんぷり」はいかんが、前述のように相互不干渉で平和的な共存を目指すのも場合によってはありかと。繰り返すが、本当に時と場合によるけど……。