走れ小心者 ARMADA はてなブログ版

克森淳のブログ。特にテーマもなくゆるゆると。

オレは「恐怖」を娯楽として楽しめない

 こないだ広島県立美術館の企画展、『国芳から芳年へ』を見に行って気付いた。題名のとおり、オレは「恐怖」を娯楽として楽しめない*1人間だと……。世の中、怖いもの見たさに根差した娯楽としての「恐怖」は山ほどある。しかしオレは、それらにのめり込めない。何度かこのブログで話した、永井豪の『ススムちゃん大ショック』も「親に殺される」あるいは「親に捨てられる」恐怖をベースに描いた作品なんだろう。しかし、オレはそれを娯楽として楽しめない! 理由は、家庭が冷え冷えとしていたのと、一度親に児童養護施設に放り込まれそうになったのとかいろいろと……。この件に限らず、オレは「恐怖」を娯楽として楽しむ事が苦手だ。水木しげる作品も、「恐怖」だけでなくペーソスとかユーモアがある作品はまだ読めるが、貸本時代の『墓の町』は本気で怖かった。

 そこからふと思ったんだが、誰も彼も全てのコンテンツに対し、「フィクションをフィクションとして楽し」みながら受け入れるのは無理なんじゃないかと。どうしても受け入れられないものがあるのは避けられないのではと思ったら、「フィクションと現実の区別をつけろ」と言うのも、時と場合によるものでしかない気がして。必ず区別出来るとか、絶対区別出来ない*2とか言い合うから、話がこじれるのであって。これをツイッターで言う気にはなれない、何度も言うけど、あそこでは「自分の好みの価値観を、世の中の中央に据えようとする殲滅戦」が展開*3されていて、今や建設的な意見のやりとりは期待出来ないので。

 この話はちょっとだけ「互いの価値観に対しどう距離を置くか」にも繋がるんだけど、話を広げられないので、とりあえずそこは棚上げ。話をオレ自身の事に戻すけど、最後には自分の受け入れられない内容の話になっちまうんじゃないかと言う恐怖から、「未知の」他人の作った物語が苦手になりつつある。全部が全部苦手と言うわけでもないが、これで相当損している。自分で物語を作りたがるのは、その恐怖の裏返しでもあったり。どうすりゃいいのか分からないけど、とりあえず書いて置く。

*1:芳年の残酷な絵より、国芳のユーモラスな内容の絵の方が好みだったので。

*2:あるいは、「現実とフィクションの区別はない」とか。

*3:その戦い方も、「やーいやーい、ツイフェミー」対「おすしねころーず」ではねえ……。この辺は長くなりそうだし、一度言及しようとしてブログ記事を書いていたがどうにもまとまらないので下書き段階で削除したと言う経緯もあり、今は詳述しない。