オレは「相手を一個の人格を持つ者として尊重出来ず、恋愛と言う競争の果てのトロフィーのようにしか思えないなら、その競争から降りた方がいい」と思って、出来るだけ恋愛と言う名の競争から降りようとした。しかしだ、最近その反対給付としての孤独がこたえるようになってねえ……。そこで下記記事に書いた事がまた出て来ます。そう、「恋愛の落伍者」に「悟りを開け」とでも言う態度です。
そしてオレの前述の考えもまた、「悟りを開け」とか「欲望を捨て、清らかに生きよ」と言う考え方だった……。人間、簡単にその辺の執着(しゅうじゃく)は消えるもんじゃない。消えていたら輪廻を解脱し、この世に生まれてはいまい。仏教の輪廻転生が正しければな……。だがオレは輪廻を信じていないので、「悟りを開け」とは言いにくい。相手を一個の人格を持つ者として尊重する事は、別に悟りを開かずとも出来るし、それを踏まえて恋愛から降りると言う事も出来るだろう。しかし、そうした者や「恋愛の落伍者」に対し、いちいち欲望や執着を完全に捨てなさいと言って回る権利なぞは、誰も持ち合わせてはいないんじゃないかと。恋愛をあきらめるために宗教に走ったって、どこかで無理が出ると思うしなあ……。オレ自身にしてからが、相手に何もしてやれなかったり、どうしてやればいいか分からなかったりするから恋愛から降りたはずが、人恋しくなっちまってるんだからな。そんな自分を戒めようとしていたが、それも限界みたいだし。こんなはなしをするのは、下記のツイートを見たからだ。
加藤智大氏の「彼女さえいれば」との発言を紹介した投稿に対し「女は承認のための道具じゃない」的な厳しい指摘を複数見た。それはそう。女には自由意志があるから思い通りにはできない。だからこそ選ばれたいし、選ばれたら救われると感じるのだろう。そういう切ない願いまで全否定しなくてもと思う。
— ystk (@lawkus) 2018年12月11日
加藤智大にはいろいろあるらしいが、それはオレにはどうする事も出来ないからさておき、相手が欲しいと言う願いを持てるのが、世の一部の資産にも人格形成の機会にも恵まれた者だけと言うのは、寂しすぎるとオレも思う。それはある意味弱者は欲望も希望も持つなと言うのと変わらない気がしてなあ……。てな事言っても、誰もオレを相手になんかしないか。