走れ小心者 ARMADA はてなブログ版

克森淳のブログ。特にテーマもなくゆるゆると。

愛、オレには愛なんかはない、けれど~

 愛より強いひょうきんも、へったくれもない! いえね、むかし引っかかった宗教と家族の間で板挟みになった時、宗教の信者に電話して押し問答になった時、「それじゃあ、あなたたち家族の愛は、どうなっているの!?」と言われた事を思い出したので。そのあと、言葉が出なかった。そして、電話代も切れた。当時のオレんちに、愛なんてものなかったのだ。さらに、それを誰にも*1分かってもらえないと言う、あきらめも出てなあ……。特に兄貴が、情愛を嘲笑し、否定するのだ。筒井康隆などのSFあたりからのウケウリみたいな、今考えたらすっげえ薄っぺらな論理で。話を戻して、信者の側からすれば、オレが家族に酷い目に遭わされようと信仰し、家族も巻き込むのが愛と言うのかも知れないが、宗教に走る前から家族間の愛情がない家庭にいては、家族への愛と言われてもねー。

 そして今も、オレの内面に愛なんてものがどれだけあるのか分からない。弱い故の生きる手段として優しさみたいなものは出しているが、いまだに愛に飢えているのは確かだ。オレによくしてくれたり、コメントしてくれたりしている人たちの気持ちが愛なのかも知れないが、オレの中に人に与えられるだけの愛はあるのか? そもそも愛って、なんだ? ちなみに、「ためらわない事」とか「決して後悔しない事」と言う答えは、間に合ってますので。それはそうと、前述のように家族間の愛情がない家庭で生きて来たので、人の愛し方が分からないところがあるのが。最初に述べた宗教の信者からも、愛情とは違うと思うけど「スキンシップが足りてなさそうな顔」と言われたりしたし。ほっとけ!

 なんでこんな話をつらつら書くのかと言うと、愛情への渇仰みたいなものをどう対処して生きればいいんだろうと思ったら、また芋づる式に思い出したんだよ。もし、最初に述べた信者との押し問答の時、「うちに愛なんて、ない!」と言い返せていたら、オレはもうちょっとマシな人生だったんかなあ? それが言えるくらいなら、最初から宗教に引っかかっていないだろうし、もっと苦しい人生だったかも知れない……。兄貴や親父の非情さ……と言うか、薄情さに同調していたかも知れんから……。と、書いていたら、以前このブログに『パタリロ!』で、ある祖母と孫との間にある確執を取り除くために一役買ったパタリロ8世が「憎しみは憎しみを生み、愛は愛を生む」と言ったのを真に受けて、「オレが家族によくすれば、きっと分かってくれる日が来る!」と思ってた事を書いたのも思い出した。のちに、打ち砕かれるがな。

 しかしなー、オレには愛があるのかないのか。いや、愛なんて、「口じゃ上手く言えないよ」って物なのかも知れない。そう思う理由は、また別の機会に……。

*1:当然、その信者にも。