走れ小心者 ARMADA はてなブログ版

克森淳のブログ。特にテーマもなくゆるゆると。

希望の持ち方

 オレがむかし宗教に引っかかったのは、人生経験の浅さからだとげんなりしていた時期があったが、考えてみれば当時の人生に「希望がなさ過ぎた」のも大きいんじゃないかと……。そこを詳述はしないけど、「撒き餌」としての希望であっても飛びついたとなると、どんだけ苦しんで生きていたかって事っすよ。ガタブレダー? ネムリー。

「珍妙な芸風ですねー」

 話を戻そう、苦しんで生きていたのはしょうがないにしても、もうちょっと何とかならなかったのか……。行き止まりの杉並区。だからもう、ええっちゅうねん。苦しみから脱却するためにどうにかしたいと思っていても、家族にこき使われ虐待され、学習性無力感ばかり蓄積されては。それでうちへの数少ない訪問客である宗教の勧誘に飛びついたんでしょうなあ、そんなオレを家族はさらに嘲笑したし……。せめて当時のオレに、よき理解者や慰めてくれる友なといれば……。ヘンに算盤高かったせいか、趣味に没頭しきれんかったのも悔やまれる。学習性無力感と自己嫌悪ばかり強かったからねえ、当時は。今さら、むかしの恨みつらみを書いたとしてどうなるものでもないが、今のオレの「希望の持ち方」について考える一助にはならんかと。何を書けばいいかは見当つかんけど。

 ところで、これはのちに稿をあらためて書く予定だけど、いわゆる二次元の世界の住人が、オレを「罵ったりいじめたり、ましてや暴力を振るったりしない」事は、かつての自分を支えるには大きかったんじゃないかと。そりゃ「絶望的な世界」を見せるフィクションだって少なくないけど、家族や学校のヤンキー*1に比べれば、どんなにか。ただねえ……。むかしは今以上に、世間が「現実で成功する」事に重きを置いていたから、それに引きずられて二次元に耽溺する事を恥じていたのは否定出来ん。ここら辺を語ると長くなりそうなんで、前述のように稿をあらためておいおいと。してみると宗教も二次元も希望そのものも、オレにとっては遠いものだった*2のかも知れないが、宗教は信者が「話しかけてくれる」からなあ……。怖い話だ。おまけに、何を言ってもバカにして来る家族よりは常識的に見えたしねー。人間関係も運次第とは言え、オレのそれには、いろいろ不利な条件が多すぎたよ。そこから紆余曲折を経て、今日まで生きられたのはいい事かも知れんけど、複雑な気持ちである。「希望の持ち方」はどうなったんだ、オレ。それなんだが、このままだと「今までだって、何とかなって来たじゃないですか」と言う言葉に収斂されそうで。そう思ってやり過ごして来たのが、意外とよかったのではないかと……。なんて結論だ。

*1:あるいはそこまでいかんでも、校内のヤニ臭い連中。

*2:オタク文化とカルト宗教は、競合してる」と、畏友カマヤン(id:kamayan)さんは言っていたけど。