走れ小心者 ARMADA はてなブログ版

克森淳のブログ。特にテーマもなくゆるゆると。

パーンパーン、パンパカパン。パンパカパンのパンパカパン

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 上図はパペポTV笑福亭鶴瓶が言っていた、鶴瓶の高校時代の尻芸をようかんにやらせた絵だが……。ウケなかったな。尻出せば笑いが取れる時代は、終わった。

 笑いと言えば、パオロ・マッツァリーノさんが「むかしの人は鈍感だったが、現代人は繊細である」みたく言っていたな。これにならえば、むかしのギャグが過激なのは、受け手が鈍感だから成立した笑いだったのではと……。パオロさんは「人間は、(下世話な趣味において)むかしも今もそんなに変わらない」みたいにも言ってたけど。ただ、繊細な者が増えた時代であると言うのは、オレはいろんなところで感じるな。ツイッターの自称フェミニストもそうだし、反対に「ネトウヨ」もそうだ。「ネトウヨ」の繊細さは、自民党政権を揶揄した者への噛みつきと言う形で表れてる。国費を9千万円使って葬式するのなんのと言われてる中曾根康弘は、首相時代にいろんなギャグマンガでネタにされていたが、それらに今のように抗議する連中なんてほとんどいなかったはず。むかしはよかったとは言いたくないが、当時の人の鈍感さが表現の自由を担保していた側面もあったんじゃないか? とは言いたくなる。あるいは、SNSと言うアホほど強力な武器をどいつもこいつも手にしたから、収拾がつかなくなったのかも知れんけど。そこはおいといて、笑いと言うものが鈍感さによってしか存在出来んのだとしたら、とても悲しい事ではある。どいつもこいつも繊細になってるなら、オレもギャグマンガ描けんじゃないかっ! 問題はそこなんだよ、笑いは差別的なものみたく、かんべむさしが『笑い宇宙の旅芸人』で言ってた気もするが、笑わせる事は誰かを傷つける事なんだろうかと悩んでいるんだ。一方で、人は傷ついても立ち直る事が出来る生き物のはずと言う、希望的観測もある。それがオレの鈍感さなのかも知れんけど。また「知れんけど」かよ。

 だからと言って、オレは「みんなが心地よい表現」を目指すつもりはない。「ネトウヨ」やデリカシーのないおっさんとおばはん、保守DQNジジイとババアに笑いで牙を剥く時に、そんな事言ってられるか。どつきあいをするわけにいかんから、時には表現で対抗せんと……。それを思えば「みんなが心地よい表現」は時として邪魔だ。それを目指したい人を責めるわけじゃないがな……。だけどそれ以前に、受け手の繊細さ故にオレが悪者にされるかもと言う心配はある。あるけど、表現は言い切る事でもあるから、ためらってはいられない。オレは表現者の端くれとして死にたい。