走れ小心者 ARMADA はてなブログ版

克森淳のブログ。特にテーマもなくゆるゆると。

現実が歪んでいれば、フィクションに対する感じ方も歪む

 最近の糸井氏には疑問がなくもないが、このツイートで指摘されている事には賛同する。目の前の現実をどう捉えるかが、フィクションへの見方にも影響しているのだ。下記記事でも似たような事書いたけど。

a-katu.hatenablog.com

 それはいいとして、現実の問題を何ひとつ解決しないでフィクションを取り締まったところで、状況はよくなりはしないと思い何度も発言した。今もおおむねそう思っているが、ではフィクションを伝える表現物は、人畜無害なんだろうかと言う疑問が。下記記事を書いているうちに、漠然と思ったんだけど。

a-katu.hatenablog.com

 全く影響を与えられないものなら、そもそも表現物として作る理由すらない気がして。上記記事でも、絵の求心力について少し触れた。また、『辛くならない絵の描き方』と言う本で、強い表現が表現者の心に影響を与える事とその危険性について触れていたし、してみると上記記事で俎上に載せた「ろくでなし子」も、挑発的な自らの表現に呑まれたのではないかと言えなくもない。いや、それも現実の歪みや問題と無縁ではないと、書いていて思い直した。と言うか、オレ自身のフィクションに対する感じ方や表現の取り扱い方が、全然歪んでないわけではないのだ。人生で酷い目に遭って来たのと、周囲とのフィクションに対する感じ方の温度差を埋められなかったのとなどで、確実に歪んでいる部分はある。だがそれは、自分の胸にとどめていればいい話かも知れないが。

 現実の歪みが完全になくなる事はないから、フィクションの*1歪みもなくならないのかも知れない。しかし、歪みを少しでも減らす事は出来るのでは。その手段に、表現規制が適しているとは言いたくはないが。

*1:そして、それに対する捉え方の。