題名はこないだ『ラジプリズム』で、部長(パーソナリティ)が言ってた言葉だ。それもそうかも知れない、嫌いなものに救われたためしはオレにもないから。このあと、「しかしながら、好きなものに救われたと能天気に言える人生でもなかったような」と続けようとしたが、オレが「好き」を信じ切っていなかっただけかも知れないと、思い直した。あるいは「好き」を奪われる恐怖が、オレを歪めていたのかも。「好き」を奪われる恐怖とは、家族だのファミ通だの宗教だのが、オレにさんざん植え付けていったものだ! 親父も兄貴もオレの趣味をバカにする、ファミ通は「アニメ絵」をdisる、そんな世の中に耐えきれず走った宗教は巧妙に俗世での興味を捨てさせようとする……。コンチクショー! どこにこの怒りをぶつけてくれよう、いくらこのブログで怒っても、反響あまりなかったし。それでも、あきらめきれないから書くんだけどね。
話を戻して、題名にもした「嫌いなものが、自分を救ってくれたためしはない」だけど、オレは周りから嫌いなものを押し付けられて苦しんでいたので、そんな事考えた事もなかった。中学時代はヤニ臭いバカどもに蹂躙され、家でも気が休まらない。好きなものを共有出来る相手もおらず、それで宗教に走りバカを見たんだが。思い出すのも忌々しい! その後人生は少しマシになったかと思いきや、勤め先で殺されかかる、転職先でもパッとしない、挙げ句の果てに精神病だよ! 自分の趣味を手放していたら、とっくに死んでいたかも知れん。してみると、「好き」に救われた人生だったのかも知れない。なーんだ、『ラジプリズム』の部長の言うとおりだったな。彼は今の中高生だけじゃなく、オレも救っていたんだ。あるいはオレが、かつての自分をなぐさめるために、『ラジプリズム』を聞いているのかも知れない。