上記記事の題名を「みんなが分かる事やれよ」としたが、そもそも「みんなが分かる事」って、なんだよ。そんなの「みんな」として抽出した母集団次第で変わるから、もとよりいい加減なものなんと違うか? だいたい日本人は「みんな」とか「世間様」とか言った曖昧模糊としたものを、権威として捉えすぎ。それだけならいいが「みんなが分かる事」が分からない者*1は、迫害してもいい空気さえある。恐ろしい事だ。これではいくら「多様性」を叫んでも、日本にそんなものが根付くはずはない! なんてこった。オレも自嘲的に「みんなが分かる事やれよ」と言った*2が、そんな事をしてもオレが「みんな」に加えられるかどうか、あやしいものでございます。
「みんなが分かる事」を世代なりなんなりの「共通の体験」と言えば言えなくもないが、それでも前述のように母集団次第で変わりそうだし、繰り返すがオレは世代ならではの「共通の体験」とやらだって、あずかれているかどうか。あまりに逆境や孤立が多すぎて。おまけに、オタク仲間からすら「マニアック」と言われるくらいだ。どないせえっちうねん。下記記事で「体験の共有」が、どう言う経緯で生まれるか分からんと言ったものの、今はそれだけに頼れない時代かも知れん……。
前段落で「体験の共有」だけに頼れない時代だと言ったのは、今はYouTubeなどで人のコミュニティが、いろいろ細切れになったからだ。だからこそ「みんなが分かる事」って、なんだよと言う問いかけにもそれなりに意味がありそうな……。「共通の体験」や「体験の共有」をアテにせず、平明な表現に努めるとかまだまだ考える余地はありそうだが、最近そう言う理論武装をする自分が嫌になってるので、この記事はここまで。