走れ小心者 ARMADA はてなブログ版

克森淳のブログ。特にテーマもなくゆるゆると。

自己否定と自己犠牲

 むかし、宗教に引っかかる前に、「親父や兄貴が正しくて、自分の考えは全部間違いなんではないか?」と言う気持ちから自己否定が強くなった時期が。今にして思えば、これが判断力を失わせた大きな原因だったのだろうな。

 オレをパチンコに引きずり回し、負けても勝っても文句を言う親父や、自分の事や難しい事をロクにしないでオレに丸投げし、それで自分の気に入らない結果が出たら殴る蹴るの兄貴。今からすれば、こんな家族の方がおかしいし間違っていると思うのだが、「学習性無力感」ってやつなどから判断を誤った。ええい、くそっ。オレが宗教に引っかかったのも、この自己否定が一因な気がしてならない。自分で判断するのが怖くなって、神頼みに走ったのが加速されたっつーか。家族に自分を否定されて、それを真に受けていたら、いろいろ失ってしまった……。

 突然だが宮沢賢治国柱会と言う宗教団体にいたが、彼の有名な『雨ニモ負ケズ』の「慾ハナク」とか「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」とか言うくだりや、出典は忘れたが「みんなのほんとうのしあわせのためならば、ぼくの体なんか百万回焼いたってかまわない」ってのは、宗教的な自己犠牲の精神が反映されたのではないかと。なんでいきなりこんな話をしだしたかと言うと、宗教的な自己犠牲は、病的な自己否定と紙一重かセットなのではないかと思ってね。パオロ・マッツァリーノさんが『みんなの道徳解体新書』の145ページで、「他人のしあわせのために自分の命を捨てるのは、あくまで次善の策、窮余の策」と言っていた。そう、お互いに幸せになる道を放棄して自分を犠牲にしたがるのは、病的な自己否定なのだ。そしてオレは、病的な自己否定がすぎて、宗教に走った……。