走れ小心者 ARMADA はてなブログ版

克森淳のブログ。特にテーマもなくゆるゆると。

すっげえさみしい……

 ひとりで自宅にいると、すっげえさみしい。今までの希死念慮もまた、さみしいと言い換えた方がいい感情だったかも知れない。しかし、長らくさみしさを埋め合わせる術を、何も持ち合わせてなかった気もして辛い。趣味に没頭すればさみしくないと言い聞かせていたが、それも限界だ。趣味に没頭出来る精神的リソースが、ゴリゴーンと削られてしまって。2001年頃は「変な連中に絡まれるくらいなら、ひとりで趣味に没頭していた方がいい」とか思っていたが、あれから21年……。そうもいかんほどさみしさが強く。今や連絡出来る相手も少ないし、ツイッターのタイムラインに浮上もしてないから、孤立感が強いのだ。これでサブカルビジネスセンター(以下、サブカルBC)に通ってなかったら、八方塞がりだよ。あそこでは、まだ対面で話せる相手がいるよってな。いや、サブカルBCで人と接する機会があるから、自宅での孤立感が余計にこたえるのかも知れん。

 正直、さみしさが自分に強くのしかかってる。希死念慮の正体がさみしさなのか、さみしさに耐え兼ねて希死念慮が出たか……。どっちにしても、長い事苦しい思いをしていたのは確かだ。自分のさみしさに、もっと早く気付いていたら、こうまで精神を病む事はなかったかも知れない。一日に処方出来る限界まで、薬を処方されるとかな。ヤレホンニサ限界灘……大瀧詠一か、オレは。話を戻して、こうまで感じるさみしさの原因は、一体なんなんだろう? あまり考えない方がいいかも知れないが。家族以外の人間関係が、まるでなかった時期を引きずってるとか、思い当たるフシはあるけど、言及したら泣きそうな気がして。泣くに泣けないのよ、今は。さみしさの理由として「自分自身に味方する事が出来てない」のが一番大きいのではと思うけど、どうやれば自分の味方が出来るのか。あるいは下記記事でも書いた「長らく周囲をDQNに囲まれていた環境」が、オレの心の壁を分厚くして苦しい事になったのかも知れないが。

a-katu.hatenablog.com

 さみしさを埋めるためには埋めるための行動しかないが、その中で自分の気持ちをどう公言したらいいのか。最近、ツイッターあたりでは、何を言っても袋叩きに遭いそうで……。話せる「内輪の者」も少ないしねえ。