走れ小心者 ARMADA はてなブログ版

克森淳のブログ。特にテーマもなくゆるゆると。

はー……

 ああ、性的な意味で人恋しくていかん。このご時世などでは、あきらめるしかないのに。と、書いてて、オレはあまりにいろいろな事をあきらめてしまったばっかりに、辛い思いをし続けていたような気がしてきた。性的な意味での人恋しさ以外にも、大小あきらめた事があって。例えば恋愛*1やら、まとまった金を稼ぐ事やら……。まとまった金を稼ぐ事については、学歴もなければ力仕事が出来るわけでもない以上、早くにあきらめざるを得なかった。マンガで一攫千金を夢見てた事もあったが、結局上手くいかんかったし。オレがもうちょっと金に欲を出していれば……言うまい。いろんな事をあきらめながら生きる事に追われていたため、逆に苦しかったんだよ。世間に嘲笑されているような気になったり、希望が見いだせなかったり。話が戻るけど長らくマンガを描く友人に恵まれなかったりして、マンガ描きにも身が入らなかったのが悔やまれる。描かずにずるずると商業ベースで描く事をあきらめるより、描くだけ描いてすっきりあきらめた方が、どんなにか。「描く事」はあきらめなくてもいいから、今も絵を描いていますけどね。けどねー。

 話を性的な意味での人恋しさに戻すが、これが出る度「ええい! 未練がましい!」と自分に腹が立つのと、人は生きてる限りそう言うのを抱えて行くものなのかもと言う気持ちとが同時に出て。前述のように、いろんな事をあきらめ続けた結果、かえって苦しい思いをしてる今は、未練がましさへの怒りと、性的な人恋しさにどう向き合っていくかを建設的に考えるのと、両方に向かい合わねばならん気がして。いや、いくら「未練がましい!」と自分を責めても、余計に辛くなる。実際、若い頃宗教に引っ掛かったせいで、性的な人恋しさに向かい合うのが大幅に遅れたじゃないか。その頃も性欲を憎むよう憎むよう生きていたが、辛かっただけだろう? 建設的に向かい合おうよ、オレ。たとえこの先、死ぬまで満たされないとしても、凡夫には完全に捨て去る事は出来ん。「悟りを開け」だと? もう、どこの宗教も懲り懲りじゃ。悟りは開けんでも、折り合う事は出来るかも知れん。どうやるかはこれから考えるけど、それはヘンに宗教的なものにすがる事ではない気はしている。経験則から。

*1:これは性的な人恋しさとは、ややレイヤーが違う話だろうし。