よく「人生楽しんでなんぼ」と言うし、一時オレもそれに習い楽しみを増やそうとしたが、心を病んでるとあかんな。それで楽しみが楽しみにならん時期があって、ずいぶん難渋した。心身を病んで楽しみが少ないなら、無理に楽しまんでもいいような。
— 克森淳(a.k.a.新豊玉三郎) (@a_katu) 2021年4月10日
そんな事も言えないほど疲弊していた時期もあったが、精神的にはしゃぐのが難しいなら、何も考えず休むしかない場合だってあるのかも知れない。
— 克森淳(a.k.a.新豊玉三郎) (@a_katu) 2021年4月10日
近年やっと精神的に回復して来たからこう思えるのかも知れないが、楽しめない、楽しみを見つけられない自分に罪悪感を覚えていたのも事実で。「人生楽しんでなんぼ」も、時と場合によるよな。
— 克森淳(a.k.a.新豊玉三郎) (@a_katu) 2021年4月10日
亡き友惟任さんからも「人生楽しめ」と(なかば強要気味に)言われていたが、あの頃こう思えていたら。「なかば強要気味に」とは穏やかでないが、かつて彼からの「人生楽しめ」と言う言葉に対し「これから楽しみますよ」と返したら「本当に、人生楽しんでますか!?」と、詰められたからなあ。楽しみなんて、そんな外圧から生まれるもんじゃなかろうに。惟任さんには悪いが、彼がうつ病を発症してなかったら、大学でも企業でもいいが後輩に無理矢理酒を飲ませて「楽しいだろ、なっ!?」と言うようなタイプになってたに違いない。惟任さんの思い出はさておき、オレが何につけ楽しみを見つけられないほど疲弊していた時期は、本当に辛かった。そこまで精神を病むには、それだけの理由もあったんだろうが、何がと特定は出来ない。出来たならオレは、精神科に通うほど病んでないだろうし。いや待て、うつ病になる者は、そうでない者より客観的な判断に長けていると言う話もあるぞ。オレは統合失調症と診断されているが、うつ状態に苦しんでもいる*1し。ああ、どんどん話が散漫になっている。話を楽しみについてに戻そう、上記ツイートにも書いたが「人生楽しんでなんぼ」が重圧になって、楽しめなかったり新しい楽しみを見つけられなかったりする自分に罪悪感を覚えるようでは本末転倒だ。だから「人生楽しんでなんぼ」も、時と場合によるよなと……。と、書いていて、オレが何度か「苦しい時に苦しいと言えなければ、問題の解決には程遠い」みたく言っていたのを思い出した。下記記事とかな。
「人生楽しんでなんぼ」も、時と場合によるってのは、「苦しい時に苦しいと言えなければ、問題の解決には程遠い」とセットになってるのかも。その辺掘り下げられるほど精神が安定してるわけじゃないので割愛させてもらうが、現代は「楽しむ」事が難しい者に冷たい気はするのと、こんな事を考えるから令和になってからのいろいろが「やけくその祭り」に見えたりもするのだろうと言うのは書いておく。実際、今の状況で強行されんとする五輪は「やけくその祭り」に他ならないのだが……。
*1:「いた」と過去形で言い切れるほど、精神が安定してるとも言い難い……。