走れ小心者 ARMADA はてなブログ版

克森淳のブログ。特にテーマもなくゆるゆると。

人間、運がないとどこまでも不幸になる

 30年以上は前の話になる。ファミ通で、ある洋画が紹介されていた。野球好きの少年が核廃絶が実現するまで野球をやめると宣言する事から、実際に核廃絶につながるような内容だった。ストーリーの詳細も洋画のタイトルも忘れたが、出だしは覚えている。何故なら紹介文の最後に、こんな事を書いていたからだ。

君は、核兵器をなくすために、ファミコンをやめられるかな?

 この一文にショックを受け、「核戦争で世界が滅んだら、ファミコン*1どころじゃない。だが、ファミコンは好きだ、どうしよう?」と悩んだ末、「中を取って、アーケードゲームを我慢すると言う事で……」と思ってしまった。え? 「ちょっと待てお前、結局ゲーセンにも行くようになったではないか」だって? のちに宗教に走り、そう言う願掛けは無駄だと思ったのよ。「絵を描くと悪い事が起こる」など、諸々のジンクスもな。それはともかく、ファミ通はあんな事を書くようなところがあるから、ゲームメーカーから「ファミコン雑誌でありながら、ファミコンが趣味である事に否定的」と言われちまうんではなかろうか? だいたい、仮にみんながみんなそんな願掛けをしたら、真っ先にファミ通が無用の長物になってしまうだろうに。今ならこうツッコミを入れられるが、当時はあまりにメディアを信じすぎていた。ヤハリ、メディア・リテラシー教育は大切だな。オレの家庭がそう思っていればの話だが。マー、メディア・リテラシーと言う言葉自体、80年代じゃなく90年代に言われ出すけど。オレが最初にその言葉を知ったのは、断筆を解いたあとくらいの筒井康隆噂の眞相での連載だったし。

 メディア・リテラシーはさておき、オレの家庭はオレの悩みにまるで無頓着で、親兄弟全員相談相手になってくれんかった。前述のファミ通の件だって、親兄弟に気軽に話が出来る雰囲気ではなかった。母親はそれ以前から「核戦争が起きたらみんな死ぬんだから、どうしようもない」と投げやりな事を言っていたし、親父はもっと刹那的だったし、兄貴は「俺に悩み事を持って来るな」と言っていたし。外に相談相手になってくれる人や友人なといれば話は違っていたろうが、そう言うのもいない。ために宗教に走っちまって……。確かにジンクスとか無意味な願掛けから、宗教の教えにより解放はされた。しかし反対給付はあまりに大きかった! 親兄弟とのあつれきは大きくなるやら、現実の問題と教団の言う事のギャップに苦しみ、精神的に不安定になるやら! これを今言っても仕方がないからこのくらいにして、悩みを誰にも相談出来なかった事に話を戻そう。なんでそうなったかと言うと、前述のとおり家族がオレの悩みに無頓着だっただけでなく、母親から「あんたの考えは世間に通用しないんだから、誰にもしゃべるな」と言われたのを守っていたからである。これがなかったら、また違う人生があったろうなあ……。どこまでもついてねえ。ここで、この記事の題名に話がつながるわけです。「オレがもっと努力していれば」と言いたくもなるけど、そもそもどう努力すればいいか分からない環境ではねえ。悩み事を相談出来る環境も、悩みを解決するために努力出来る環境も、運次第な面があるのではと。してみるとオレは、運にすら見放されていた事になる。不幸だなあ、どうやって埋め合わせすればいいんかなあ。埋め合わせとか考えないで、さっさと人目につかないところで黙って死ねってか? いやだね。そう強要するお前が、先に死ね! って、誰が強要してるんだよ。

*1:この場合、テレビゲーム全般を指す。