走れ小心者 ARMADA はてなブログ版

克森淳のブログ。特にテーマもなくゆるゆると。

オレが死ぬまで、オレの中で決着はつかんだろうが……

 かつてファミ通に載ってた鈴木みそのマンガで、信用していたゲームメーカーにある事で裏切られたと思ってグレた少年が、ヤンキー丸出しのかっこうで「ゲーム? けっ、大人に踊らされやがってよ」と言うオチの回があった。今にして思えば、そのオチにしたって「ヤンキーと言う様式に染まるのもまた、別の大人に踊らされてるのではないか」と言えるのだが、当時はそこまで知恵が回らんかった……。嗚呼。オレがこうまでいちいちファミ通にケチを付けるのは、オレ自身のメディア・リテラシーの育て方の間違いがこたえているからだ。その辺についての一番古い記憶には『飛龍の拳』と言うゲームが絡んでくる。いえね、発売された当時ファミ通クロスレビューでは点が低かったが、実際やってみると面白かったので。その時「あれ? ファミ通の言ってた事と違うな」と言う気持ちが芽生えて、一種の「認知的不協和」みたいなものが発生した。まだ若いと言うより幼い頃だったから、メディアの言う事に間違いがあると思わず、メディアの側に間違いや齟齬があった時どうすればいいかも分からんかったしねー。だからファミ通の事になると、いろいろ取り乱すのだ。前にもメディア・リテラシーと言う言葉をはじめて知ったのは90年代の『噂の眞相』に載っていた筒井康隆の連載からと言ったが、その言葉を使わなくてもリテラシーを学ぶ事は出来たんじゃなかろうか? と、今さらながらに思うので。「メディアの信憑性」への疑問は、1989年の宮崎勤逮捕から起きた一連のマス・ヒステリーやモラルパニックを見てやっと芽生えたんだが、もうちょっとスムーズに学習出来んかったんか……。それが悔やまれてならんのよ、確かに時代の混乱が人を成長させる事はあるが、出来れば面倒事や苦しい思いを通さず学びたかったわいな。

 これは、ファミ通に抱いている複雑な感情の一部に過ぎない。複雑な感情はオレが死ぬまで、オレの中で決着はつかんだろう。題名にも書いたけど。一時、ゲーセンや同人イベントで知り合ったオタク仲間とファミ通を腐して盛り上がった事はあったが、今ではそんな事出来る相手もおらず……。話をメディア・リテラシーに戻そう、オレのメディア・リテラシー不足からの苦しみはファミ通相手だけの問題ではない。家族との接し方、世間との接し方、そして宗教の勧誘との接し方にも関係してくるので。なんでもっと……と、書いてて、今のオレもまた若いと言うより幼い頃の自分に大きなものを背負わせすぎではないか? と思えて来た。これはまずい、パオロ・マッツァリーノさん言うところの「自立の鬼」になってしまう。近頃の「自立の鬼」は、やまゆり園事件やALS患者への嘱託殺人を引き起こしたではないか! まずいですよ、これは。だいたい孤独な幼い少年が、メディア・リテラシーをひとりで涵養出来ますかいっ!? ならば、これからの事を考えるしきゃねえ……。すっげえ難しいけどな。