走れ小心者 ARMADA はてなブログ版

克森淳のブログ。特にテーマもなくゆるゆると。

物知りなのか、執念深いのか……

 どうもオレは物知りキャラみたく人から思われているが、確かに生地として「物覚えがいい」のは認めるけど、どちらかと言うと「執念深い」から「いい事」も「悪い事」も忘れられないでいて、知識みたいなものが溜まったような気がする。覚えている事の傾きを考えると、そう思うのだ……って、なんでオレはそんなに物知りキャラ扱いを嫌がるのか。「世の中、上には上がいる」から謙遜しているなんてものじゃないぞ! これは先日急逝した、唐沢俊一の呪いではなかろうか。言っとくが別にオカルト的な意味で言っているのではなく、生前の唐沢の言動に影響された故の事だ。次の段落で説明する。

 昔、唐沢俊一は物知りキャラとして一世を風靡していた。しかし一方で、奴は自ら「よく知ってますねえ、どうでもいい事を」と言われると公言したり、自分の知識は今で言うニッチなものでしかないと吹聴していた。それが奴と似たところのあるオレにはこたえたし、時間が経つにつれ奴の物知りキャラとしてのメッキが剥げて行くのを見て「唐沢俊一劣化コピーみたいなオレは、もっと大したことないんだろうなあ……」と、自己嫌悪に至ったのだ。それが、物知りキャラに見られる事への劣等感に繋がっているのだろう……。唐沢の人間性の酷さも、自己嫌悪や劣等感に繋がっているが、あまりに奴に自らを投影しすぎな気がするぞ、我ながら……。だから前の段落で「唐沢俊一の呪い」と……。こんな風に考えるのも、前述の「執念深さ」が影響しているけども。

 しかし、書いていて思うのだが、最初に述べたように生地として物覚えのよさはあるのだから、物知りキャラとしての自分を受け入れてもいい気はする。唐沢俊一も死んだ事だし……。ただ、唐沢の呪いを招いたのは、自らがオタクである事への劣等感も大きい。昔はそれを世間からスティグマみたいに植え付けられたし、オタク社会においても劣等感の押し付け合いがあったし。後者は今もある気はするが、話を脱線させないため詳述はしない。唐沢俊一の物言いこそ「オタクによるオタクである事への劣等感の押し付け」な気がしないでもないけど、そこも言及したくないっ。

 こんな話を長々と出来る以上、オレと言う人間もつくづく執念深いとは思う……。もうちょっと「いい事」への執念で話をしなさいよ、オレ。