走れ小心者 ARMADA はてなブログ版

克森淳のブログ。特にテーマもなくゆるゆると。

叫べ! 繰り言。力の限り!

 オレは何度も、このブログで似たような事や繰り言しか書いてない事を憂いていたが、それは「先へ進む」ための通過儀礼みたいなもんだったのではと最近思うように。いえね、確かに何度も繰り言を述べているんだけど、最近になってやっと繰り返し述べて来た過去への呪縛が解けて来た気もするし、間違いなくオレ自身の状況は良くなってるし。それはオレの行動が、無駄じゃなかった証左でもある。ぐずぐず言いつつも、いろんな事をやっていたものな。繰り言で、過去に囚われて身動き出来てない時期もあった*1が、最近やっといい状況に。これでコロナウイルスの件が収束すれば万々歳なんだが、そっちはまだ先な気がするのでこの記事では考えまい。と言うか、コロナ禍でも状況が改善したんだ。見通しは悪くない気がするので、あきらめは禁物だな。

 あきらめうんぬんで言えば、親父はオレが絵を描く事に対し「見切りを付けろ、見切りを付けろ」と、うるさかった。それを真に受けてあきらめていたら、人生つまらないどころか、辛すぎたろうなと。これも繰り言だが、まあ聞いておくれ。親父の狭い世界観を踏襲して生きていた頃は、DQNに酷い目に遭わされる一方だったんだし、あきらめきれなかったのも2006年に親父が死んだのも、いい事だったんだろう。欲を言えば親父をオレの絵やマンガで稼いだ金で楽させてやりたかったが、それこそ「たられば」にしか過ぎんだろう。この辺は言うほど悲しくなるので、切り上げるか……。あえて一言付け加えるなら、オレは親父の顔色をうかがって生きていたばっかりに、非常に損したと。たとえば、親父に辟易し「家族全員分の幸福」を「一気に」求めたため、つまらん失敗もあれこれ……。ううう。

 話を「先へ進むための通過儀礼」に戻そう。繰り言を述べる事で、前の段落で書いた「親父から押し付けられたあきらめ」とは別の意味でのあきらめがついた可能性もあり、それで前へ進めたのかも。そう思えるようになったのにも、近年いろいろ小さな幸せがあったからなんだよね。人間、ふて腐れていてもどうにもならんってこった。痔は小松で治しておくこった……。すまん、昭和の初めの痔の薬の広告思い出したの。

 とは言え、最近は繰り言の世話にならんでも自分を見つめる事が出来そうなので、さらに先に進める気がして来た。めでたい事だ。

*1:とは言えそれは、未来に対する希望や目的が持てなかった故もあるけど……。