今は中断しているが、参考書と問題集のみで中学の数学を勉強しなおしていた時、学校の「一定の人数を集めて、決まった時間同じカリキュラムを学ばせる」と言う仕組みは、よく出来ていると痛感した。……児童・生徒が他人の勉強を邪魔しなければな。それは繰り返し言ったが、そこに関連したオレのツイートを下記に貼っとく。
いじめなど、子どもの問題に対し「学校が世界の全てではない」と言う声があるが、学校に通うと、その中のガキ社会(「スクールカースト」なんて言わんぞ)に絡め取られるからなあ……。
— 克森淳(a.k.a.新豊玉三郎) (@a_katu) 2021年8月22日
「学校が世界の全てではない」と言うのは、学校と言うものから縁が切れて、どうにか生き延びた者が言える台詞じゃ。当の苦しんでいる子どもには届きにくいのではないか?
— 克森淳(a.k.a.新豊玉三郎) (@a_katu) 2021年8月22日
とまでは言えるが、オレは頭悪いから「では、どうすればいいのか?」まではわからん。話が頭いい相手に拾われ、広がる保証もないし。学校うんぬんに限らずそうなんで、最近人に物を言うのが辛かった。今やそうも言ってられんが。
— 克森淳(a.k.a.新豊玉三郎) (@a_katu) 2021年8月22日
「人が三人集まれば、派閥が出来る」と言うように、人が集まるところには社会が生まれてしまう。それは、学校とても例外ではない。おまけに、学校内のガキ同士の社会*1の内部は、いじめへの歯止めなんかないから恐ろしい。歯止めになりうる学校そのものも、今どきの教師は多数の加害者を罰するよりも少数の被害者に泣き寝入りをする事を強いると言うし。罰すべき相手が多いと面倒だからな……、ちくしょう。弱者は常に犠牲になるしかないんか? と、泣けて来る。話を戻そう、誰ぞが「家庭でも学校でもない、自分の居場所を作っておかないと死ぬしかないに繋がる」とか言っていたけど、ガキの社会は学校や地域に根差している以上、弱者がそれを作るのは容易ではない。「学校が世界の全てではない」とは言え、ガキは学校や地域に依存して生きてるところもあるしなあ……。マー、経験則だけで言ってる部分はあるけど。
学校内のガキの社会を解体あるいは再構築しようと、学校が思わなければいつまで経っても同じ事だ。それには学校以外の社会に力を借りたいところだが、教育に関してはガキを自らの支配下におこうと、胡散臭い連中が手ぐすね引いて待っているしなあ……。オレの頭ではここまで書くのが精いっぱいじゃ、ちくしょう。自分にどうにもならない事に気を揉むのはやめたいが、ツイッターで「学校が世界の全てではない」と言う言葉を見て、その言葉は苦しんでいる子どもには届きにくいのではないかと思ったばっかりに、こんな文章を。最後に言っておくが、勉強の敵は娯楽ではない。いじめをするガキだ!