走れ小心者 ARMADA はてなブログ版

克森淳のブログ。特にテーマもなくゆるゆると。

自分は他人のはじまり

 これは「兄弟は他人のはじまり」と言う言葉のもじりで、出典は藤子・F・不二雄の短編から。だいたい過去から未来から自分(主人公)が集まって、いろいろ問題解決しようとするが上手く行かなくなった時に発せられる言葉である。オレはこの言葉にも打ちのめされた。思春期で不安定な時、自我すら否定されたとあっては。これが「俺の味方は俺だ。俺には俺がついているから大丈夫!」と言う言葉みたいな自己肯定に至れなかった一因であろう、やっぱりマンガ「だけ」読んでちゃだめだな。それで思い出したのが、こないだのオレのツイート。

 上記ツイートで引用したツイートの事の発端はFGO絡みらしいんだが、詳細を知らんし知りたくもないので割愛。さておきオレが芦田豊雄の言葉に惹かれるのは、ある意味オレなりの藤子F*1へのアンチテーゼ探しなんだろう。あくまで「探し」ですよ。見つかっていたら、オレの事だからさっさと創作に取り入れているだろうし。しかしオレが思春期の頃は、哲学にも自己肯定を強める創作物にも出会えなんだ。おまけに周囲が悪すぎたし。今さら取り返しはつかんが、悔やんでも悔やみきれない……。そりゃ今は思春期前半に比べて、いろいろ条件はいいですよ。しかし残念ながら、寿命は思春期に比べて思いっきり減っている。それを思うと、自分の人生がなんだったのかと慚愧に耐えないのよ。芦田豊雄の言葉に戻ろう、あまり過去を悔やむと繰り言にしかならん。エンターテイメントになんでもかんでも求めたり背負わせたりする事に、オレは疑問があるから首肯しているのかも知れない。確かにそれが何かを考えるきっかけになる事もあろうが、その先はアカデミシャンの仕事ではないかとも。しかし多くの人間は学者が嫌いだ、だからどうにもならないところがありそうで。……ダメだダメだ、思春期に植え付けられた厭世観が、なんでもかんでも悪く見せてしまう。これを克服せんと、余生が大変つまらんもんになってしまうぞ!

*1:あるいは、これまで見聞きした嫌な創作物全般。