走れ小心者 ARMADA はてなブログ版

克森淳のブログ。特にテーマもなくゆるゆると。

おおおおお……おおおお……おおお……おおおおお~!

 このご時世だ、性的なさみしさをエロ絵描く事に向けるしかねえ。と言うか、長らく性的にも性的抜きでもさみしかったんだが。後者が埋まりそうだったところに、コロナウイルスや……。流石に凹んだ。外出は制限され、生き延びるために逼塞(ひっそく)せねばならず、そんな中連絡してくれる者も少ない。流石にこたえた。こんな状態ではエロ絵でも描かねば、やってられん。と言いつつ、ラフで止まってたりするんだからなー。しかしエロ絵を描く時「愛したい、愛されたい」願望を絵に込めると、複雑な気持ちになる。そう言う願望を「萌え絵」で表現することを嫌う連中の事が頭をよぎって怖くなるのと、自分の描きたいものを描く喜びとの板挟みになるのよ。なんでそんなに怖がるのかって? いつ酷い目に遭わされるか、分からんからだよ! わけの分からん理屈*1を振りかざして暴れる連中を怖がらんで、何を怖がるんじゃ。と、書いててこの話題が嫌になって来た。いろいろ嫌な事を思い出して、書くのが辛く。仕方ない、「自分の描きたいものを描く喜び」でも語ろう。これも言語化しづらいが、嫌な連中について語るよりましじゃ。「愛したい、愛されたい」願望を込めた絵が形になっていくと、気持ちが満たされていくんだよな。これで、ひとりでも多くの人に見てもらえて、喜んでもらえたら喜びもひとしお。この辺、描かない奴には分からんだろうな。「愛したい、愛されたい」願望はオレのエゴでしかないが、その願望もエゴも、一生ついて回るのよね……。

 前段落、やたらに長くなったが、どこで段落切るべきか迷った挙げ句の事だ。すまぬ。しかしなー、オレは迷っているんだよ。「愛したい、愛されたい」願望を満たすために動くべきか、絵を描くなどの代償行為で我慢すべきか、そう言う願望を捨て、修行僧のように生きるべきか。一番最後は、御免候タワイタワイと言いたいが、前述の「愛したい、愛されたい」願望を「萌え絵」で表現することを許さん連中は、男は修行僧のように生きろと有形無形の圧力をかけて来るからのう……。おまけに甚だしきは、「女性に性欲はない」というむちゃな事を言う者まで! だから怖いし、反発したくもなる。しかしどう抗えばいいか分からん、はてさて。

 んで、オレがなんでこんな事ばかり言うのかだけど、「萌え絵」に限らず今やアートは横断・越境するものだからだ。「萌え絵」がそれだけで独立して存在してはおらず、それまでのアートとも繋がっているし、これからのアートにも繋がって行く*2のだ。ヘンな圧力で断絶させられちゃたまらん。ゴーギャンの絵を、本人の不品行を原因に美術館に置くなと言う動きがあるくらいだから、言うのが遅きに失したきらいはあるが。それに、オレひとりが言っても、事態は動きゃせんし……。その上で、オレは「愛したい、愛されたい」願望をエロ絵に込める事にした。時代の愚と、性的なさみしさに耐えるために。

*1:以前「殺人を扱ったミステリーはいいが、エロは許さん」と言う根拠を述べた奴がいたけど、その理屈がどうしても理解出来んかった。

*2:これは他の絵柄などにも、同じ事は言えるのだが。