コチラで触れた、「人類ダメ」問題について再考。今度は永井豪作品を題材に。
永井豪の「人類ダメ」作品と言えば、ヤハリ『デビルマン』が真っ先に来るのだが、それは今おいといて。コチラでも少し触れた『ススムちゃん大ショック』を俎上に載せてみる。後年になって、永井はこの作品を『デビルマン』同様「人類が道を誤ると、こうなってしまうぞ」と言う事を見せたいから描いたと言っていた。発言の細かいニュアンスは覚えちゃいないが。ただ、両方とも山本弘氏がブログで平井和正作品に対して指摘したように、そこから先に進んでないのだ。実際『ススムちゃん大ショック』を読んだあと、「じゃあ、オレは何をどうせえっちうだ?」と言う巨大な疑問が浮かんだし。答えなんか得られるわけがない。永井が投げっぱなしたもの、当時小学生だったオレにわかるはずが……。周りにも、その辺をキチンと受け止めてくれる人もおらなんだし。恐怖の大部分が「親に殺される、捨てられる恐怖」に根差してはいたが、当時それを上手く言語化出来んかったと言うのは、前にも書いた。
ファンロードの永井豪シュミ特(シュミの特集)で、『ススムちゃん大ショック』をメインにした本多勝一と永井の対談の存在を知り、図書館で読んでみたもののどうにもピンと来なかった。その頃既にカルトによる洗脳は進んでいたので、今にして思えばそれと関係があるのかも知れないけど。
『デビルマン』は終盤、聖書の黙示録を思わせる破滅が訪れるが、黙示録にはキリストの再臨によるキリスト教徒への救いが描かれているのに対し、『デビルマン』にはそんなもんなし。これもかなり投げっぱなしと言えば投げっぱなしだ。この頃の少年マンガは、ジョージ秋山の『ザ・ムーン』とか、石森章太郎の『リュウの道』とか、やたらに地球が滅亡していたけどな。冷戦とか政治問題とか学生運動とか色んなものがないまぜになって、そんな話が描かれ続けたのだろうがヤハリ……。
80年代に書かれた共産党系(石子順が噛んでいた)のマンガ評論本(書名は失念)において、永井豪の『鬼』が取り上げられ、作品のテーマに理解を示しながらも、「作者の人間観は、その後の作品のバイオレンス描写と無縁でないようで、気になる」と書いていた。結局そう言うところなのかも知れない。
さて、ではオレはどうすればいいのか? 昭和40年代(立花隆の調査あたり)から現在までの児童虐待の推移でも調べて、子どもが大切にされて行っている時代になってるとして永井をdisれとでも? でもなあ、似たような調査は半分以上パオロ・マッツァリーノさんがやっちゃってるしなあ……。いえね、週刊モーニングに『ススムちゃん大ショック』が再録された時、「時代に警鐘を鳴らす」とかなんとか惹句が付けられてたけど、児童虐待の数は減っていないかと疑問に思った事があって。まだまだあの日の恐怖を克服するには時間がかかりそうだ。さらに最近は、自分が殺す側に回るんじゃないかと言う別の恐怖が……。嗚呼。