走れ小心者 ARMADA はてなブログ版

克森淳のブログ。特にテーマもなくゆるゆると。

みなもと太郎と『新ペンだこパラダイス』

 だいぶ気持ちが落ち着いて来たので、みなもと太郎追悼の意味を込めて一文を書く。ツイッターで、みなもとの生前の思い出話をいろんな人が語っていたが、その中の3年以上前のツイート*1にこんな話が。少女マンガ家ではじめてカラーインクを使ったのは、みなもとだったとのこと。みなもとが京都の実家で描いていた時代に友人のいたデザイン事務所にあったカラーインクに目を付け使ってみたところ、他の作家にも広がったと言う話だ。こう言う試行錯誤が日本のマンガ表現の幅を広げ、今オレもパソコンでマンガを描けるに至ったのだろうと思う。え? それはいいんだけど、題名の『新ペンだこパラダイス』って、なによだって? さればその事にござる。オレは「サヨクキチガイ」と今は亡き友人に言われたくらいだから、最近しんぶん赤旗の日曜版も取っている。そこで今連載されているのが『新ペンだこパラダイス』と言う、マンガ家志望者を描くマンガだ。『どんぐりの家』や『わが指のオーケストラ』などで知られる山本おさむ氏が、かつて描いていた『ペンだこパラダイス』をリブートさせたもので、現在は伝説のマンガ誌『COM』創刊の年、昭和42(1967)年の熊本*2が舞台。昭和42年は、みなもと太郎の商業デビューの年でもある。『新ペンだこパラダイス』の主人公は中学生で、みなもとより数年ほど年下になる。今よりマンガを読む事もましてや描く事も歓迎されてない時代、主人公とその友人たちはいろいろ苦労している。その辺はみなもとも、輪をかけた苦労を経験していた*3とか。おまけに情報が均質化していない時代と言う事もあって、みなもとや『新ペンだこパラダイス』の主人公たちはいろいろ手探りだったし。んで、みなもと太郎作品においては「先人の労苦に敬意を払い、それからどうするべきか」と言う問いかけがよくなされている。それを思うと、『新ペンだこパラダイス』連載とみなもとの死に一種のシンクロニシティを感じるのだ。みなもとの『風雲児たち』の佐久間象山が聞いたら「それは愚者の発想だ」と言いそうだけど、どうしてもね。繰り返すが、情報が均質化していない時代故の試行錯誤が、結果としてマンガ表現の幅を広げたりマンガの地位向上をさせたりしたとなると、マンガを描く身としては前述のみなもと作品における「先人の労苦に敬意を払い、それからどうするべきか」と言う問いかけが心に響くので。

 5月の三浦健太郎の急逝の時もそうだったけど、連載作品を未完にして死んだマンガ家の話を聞く度に「やはり生きているうちに、一本でも多く描きたいものを描かなきゃダメだね」と、強く思う。「じゃあお前も、こんな文章書いてないで、描きたいものを描け」と言われたら返す言葉はないが、もうちょっとお付き合い願いたい。ここから先は自分語りの繰り言になるが、オレはもっと真剣に商業マンガ家になるための行動を取っていればよかった……。そりゃ今も描いているんだけど、みなもと太郎や『新ペンだこパラダイス』の主人公に比べると、かつての行動や逆境への対応がぬるすぎた気がして。だからと言って、筆を折るわけにもいかん。このブログにコメントをよく寄せてくれる「負次郎」氏から「克森さんは繫がりたい人々と繫がる努力より、繫がりたくない人々との小競り合いに気を取られてるように見える」と言われた事があったけど、確かにそのためいろいろ回り道した。これはまずい、挽回せんと。今の状態なら、描きたいものを描く事が出来るだろうし。

 みなもと太郎の死に心が騒いだのは、マンガ家の先人として偉大な方だったからだろうなあ……。オレが単にマンガを読むだけの者だったとしても訃報にショックを受けていたろうが、それは今感じてるものとは別だろうし。ぐずぐず言うより、描く事が一番の手向けになるかも知れん、塩漬け原稿とか描かんと……。

*1:なので引用が難しく、話の要約に留める。

*2:作中の方言から推測。赤旗日曜版取り出したのが、連載途中からなんで、推測するしかない。

*3:作画グループ版『ホモホモ7』単行本収録のロング・インタビューで、高校生でマンガ読んでたら白痴扱いされていた時期もあった(のちにみなもとは、そこに言及する時「問題児」と表現を和らげる)と言っていた。