こんな連ツイをした。
オレの好きなものに対し痰唾吐いたり、取り上げようとしたり、とにかく否定して来た連中が憎いが、いくら恨んでも奴らに一矢報いたためしはない。やけっぱちになって、楽しみを貪るしかねえ。
— 克森淳(a.k.a.新豊玉三郎) (@a_katu) 2021年12月22日
「いくら恨んでも奴らに一矢報いたためしはない」から、なんか文法がヘンだな。マー、言いたい事は伝わると思うが……。とにかく、人を憎むのに疲れたんだ。
— 克森淳(a.k.a.新豊玉三郎) (@a_katu) 2021年12月22日
オレの余生も「やけくその祭り」にするしかねえ。憎しみで人生を捨てるわけにいかんと、大阪の放火事件で強く思った。京アニに放火された時も思ったが、大阪の事件は他人事じゃねえ要素多くて。被害者に立っても、加害者側に立っても。
— 克森淳(a.k.a.新豊玉三郎) (@a_katu) 2021年12月22日
晴らしたい恨みはあるが、それはもう創作の中に向けよう。他に手はない。
— 克森淳(a.k.a.新豊玉三郎) (@a_katu) 2021年12月22日
なんでこんな事を書いたのかと言うと、憎しみや恨みと言った感情に沈んでいた事が、オレの人生を歪めていた最大のものだと思ったんですよ。そりゃ、オレを苦しめて来た連中は酷いですよ。しかし手を出す事が出来んとなると、もう「やけくその祭り」をするしかないわけで……。「やけくその祭り」と言うと人聞きが悪いが、楽しみを楽しめる期間がどのくらいあるか分からないし、その楽しみと引き換えにもっと酷い不幸が押し寄せるかも知れんし……って、悲観的な創作物の見過ぎ読み過ぎだ。
上記ツイートのような考えに至ったのは、こないだサブカルビジネスセンター(以下、サブカルBC)で他の利用者と赤松健氏の出馬から表現規制の話になった時、表現規制の問題に絡んで来る「騒動屋」と言うしかない連中への怒りを爆発させたら、相手に「そう言うのは、何事につけ出て来ますから」と言われ、ならばオレが連中のやる事に責任を感じるまでもないと思った途端、怒りや不安がしぼんだ*1のも大きい。あと、ツイートにも書いた事と重複するが、憎しみや恨みで捨てていい人生でもないと、これまたサブカルBCに通っていて思えるようになったのだ。とは言え、客観的な状況*2が厳しいのも感じているが。何故かは簡単には説明出来ない、逐一言ってどうなる話でもないしな。客観的な状況が楽観出来んから、自分の人生を楽しむ事が「やけくその祭り」と思うのだけど、それはそれで悲観的にすぎる気がしないでも。マー、かつての人生が酷すぎたから、それを引きずっている内はどうしてもね。
オレは亡き友「惟任さん」みたいに「そのうち何とかなるだろう」と歌い出すとか「世の中、どこかで良心が働く」とか「(世の中の問題は)誰かがやる」とか言い出して安穏としていられる性格ではないので不安を抱えまくっていたが、抱え過ぎた気も。オレはもう、大阪の放火魔みたいにはなりたくないし……。