今期鬼太郎の妖怪の位置づけが、イマイチピンと来なかった。超自然の存在なのか、マイノリティの暗喩なのか? 4期の京極夏彦脚本の回の「妖怪は本来この世にあってはならないものだが、同時になくてはならないものでもある」って結論の方がまだ。
— 克森淳(a.k.a.新豊玉三郎) (@a_katu) 2020年3月29日
『ゲゲゲの鬼太郎』6期終了を受けて、こんなツイートをした。こんなツイートも。
今期のぬらりひょんは自爆して果てたか、宇宙猿人ゴリかよ。 #ゲゲゲの鬼太郎
— 克森淳(a.k.a.新豊玉三郎) (@a_katu) 2020年3月29日
本当は、もうちょっとごちゃごちゃ言うつもりだったが、頭が働かない。けど書く。最初に引用したツイートにあるように、6期は妖怪の位置づけがピンと来ないところがあった。「ぬらりひょん編」になってから、人間と妖怪の対立に焦点が当たったのもあるんだろうけど、それ以前からね。と、書いて放置していたあと、コロナウイルスのせいで家に逼塞(ひっそく)せざるを得ない状況下、積ん読だった『ねずみ男大全』を読んでたら、6期鬼太郎のテーマは「多様性の肯定」だと言うのを知った。2年間やってた番組*1を、どんだけチェックしてなかったんだよオレは。ツイッターばかり見ていて、他のメディアから離れた不明を恥じる。いや、そのツイッターで「多様性」を振りかざしながら、やってる事は排他的な連中のせいで「多様性」と言う言葉にも随分手垢が付いちまった故、その辺が伝わらなかったのかもな……。しかし言われてみれば、人間と妖怪の間に生まれたと言うねずみ男が「名無し編」や「ぬらりひょん編」のラストで活躍したところに、そう言う寓意が込められていたと言えなくもない。と言うか、書いてて「多様性の肯定」と言うテーマを咀嚼しきれなかった自分がイヤになって来た。人様の話を理解するスキルが衰えていた側面はあったが、いくらなんでも酷すぎる。酷いのは6期鬼太郎のモブ*2もだが。連中、どうにも主体性が弱い……。待てよ、現実の人間もたいして違わんか。
ダメなオタクとしての感想を言えば、ラストシーンを見て「で、さらに時が経ち、老いた犬山まなと姿の変わってないねこ娘のキャッキャウフフな同人誌はまだですかね」と思ったんだが……。前にもどこかで言ったかも知れんが、6期の女性キャラの多くが今風な事には「水木しげる本人からして、雑誌の仕事を受けて忙しくなってからは、女性キャラをつげ義春に丸投げしていたさかい、あれでええんじゃ」と思っているし。……こう言う感想ばかり書けるものならねえ、オレも苦労はいらないんだが。自分の中で引っかかりがある部分が、どうにも目を曇らせてなあ。「ぬらりひょん編」がはじまる前に「現代性をブースト」と言い出した時から、引っかかりはあって。「制作側が自らそう言い出すと、あらぬ方に行ってしまうのでは?」と言う疑問から、気になる点が増えて。手の目の話で「なんか原作版デビルマンみたいなテイストだなあ」*3と思って、それはとても大きくなったんだけど……。「名無し編」の終盤でも「今までの展開が今までだったので、相当のバッドエンドが来るんじゃないか?」と思ったが「ぬらりひょん編」ではますますその思いが強くなって、気が気でなかった。水木しげる作品そのものも恐怖や風刺があったのだが、たとえば「おっと、にげちゃあいやよ!」と言うような台詞回しに見られるすっとぼけた側面があって、みようによってはとても残酷で悲惨な話も読めたところがあったので。ツイッターには「ぬらりひょん、勝ち逃げみたいなものじゃんかよ」と言う声もあったしなあ。と、書いたところでこの記事終わり。『ねこ娘大全』などを参考に、前述の「老いた犬山まなと姿の変わってないねこ娘のキャッキャウフフ」でも描けんか模索するさ。