最近のTwitter、もっと怒りよりも好きが流れてきて欲しい、という話はわかりみあるけど、社会全体が機能不全を起こしてどこもかしこも崩壊しつつあるのにみんなが「好き」しか語らない、語れないタイムラインがあるとしたら、それもまた別種の地獄なんではなかろうか……。
— あきひろ (@Werth) 2019年11月16日
気持ちは分かる。社会が機能不全を起こしているか否かはおいといて、苦しさとか悲しみとか言った、人間や社会について回る部分を言えないネットは怖いですよ。実際、そうなりつつある気がするし。中国で採用されている「信用スコア」とか見ていると、日本も対岸の火事ではいられないような。なんでこんな事言うのかって? いえね、前にツイッターで「死にたい」と書いたら誰かが通報したらしくてツイッター社から相談機関を案内するメールが来た時、むかし「いのちの電話」に相談したら埒があかなかったばかりか、キレられたのを思い出して。そして、ただ相談機関を案内するだけで、自殺が止まるものなんでしょうか? それは本当にユーザーに寄り添っているんでしょうか? と言う疑問が出て。表面だけ苦しさや悲しみを廃しても、事態の解決にはならんしなあ……。「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ」と、太宰治も『右大臣実朝』で言ってた事だし。楽しい時には明るく振る舞って差し支えないんですよ、ただ厳然と存在する苦しさや悲しみを隠すために明るく振る舞ってもねえ。
こんな事になったのも、ネットが間違いを許さないメディアになったのと無縁ではあるまい。間違ったら、間違いを認めたら瞬殺されていくうちに、「正しい事」しか許されなくなって行ったっちゅうか。オレもあんたも間違えるんだと言うところから、ネットはやり直さないとまずいんと違う? さもなくば表面的な正しさや明るさだけが横行し、今以上に議論も知見も深まらないネットになるのでは。オレは、それを恐れる。