走れ小心者 ARMADA はてなブログ版

克森淳のブログ。特にテーマもなくゆるゆると。

物語の終焉

 以下に、ツイッターからの引用を少し長いが書きこむ。

 その1。以下引用。

大泉さんの映画、映画や小説としては定番の題材で、なかでも今回のはとくに「良心的」っぽいのになんでこんな反応になってるんだろう、、、と思ってたら、たとえば不倫を映画で描くということ自体が受け付けないという子が増えていると講義で映画を扱う先生が困っているツイートが流れてきた。

 その2。以下引用。

「万引家族」の反応といい、「不倫を描いた映画なんて!」という反応といい、すごい勢いで物語を(読解という意味ではなく)咀嚼する力が落ちてきてるのを感じる。

 その3。以下引用。

その物語のなかでそれが否定されるにせよそれが肯定されるにせよ、「道徳的でないこと」を取り上げた物語への抵抗みたいなのが強くなってきた気配は、個人的にはかなり悪寒が走ります。

 その4。以下引用。

「道徳的でないこと」をどう描くかで賛否が分かれるのはよく分かるし、それは過去からずっと行われてきた議論ですが、もはやそのレベルではないんですよね。描くこと、取り上げること自体への反発が先に立ってる。かなりやばいですね。

 その5。以下引用。

いま人々の読解力が落ちて、文脈でなく単語でしか文章を判読できない人が多くなってきているといわれるんですが、この物語にたいする「雑な」反応もその弊害なのかな。それを肯定するのか?とかそれを否定するのか?などという物語に反応していないんですよね。単語に反応しているだけで。

 その6。以下引用。

万引き家族」に対して怒ってるネトウヨ諸氏を笑ったり呆れたりしていた数日後にこれですからね。わりと事態は深刻かもしれません。

 関連してそうなツイート。以下引用。

創作の世界に「いわゆる不道徳なモチーフや概念が使われている」だけで否定されたら、造り手がどう落とし込むか・どんな答えを提示するかも意味をなさないですね。それは物語から得られる体験や比喩、思考の幅を失うこと。想像世界から自由を奪えば私たちには「貧相な理想」だけが残るのでは。

 最初のツイートに出て来た「大泉さんの映画」だが、ツイッターで「おっさんと女子高生の恋愛を肯定するような」映画だと叩かれたものの、「そうではない、逆だ」と言う声が上がった途端、「おっさんが女子高生に手を出さないのが当たり前なので、見る気がしない」と言う者が出て来た。もしかして、物語と言う形で何かを訴えたり共感してもらったり出来る世の中って終わったのでは? と言うと、「勝手に終わらせないで下さい」と言われたりしそうだが、この数年の状況を見ていると、極めてうすら寒いのだ。引用したツイートにもあった、「貧相な理想」が、世の中を席巻してしまっていると言うか。これは下手くそながらもマンガを描いている身としては、かなり深刻な問題なのよね……。

 正直、この数年で、こんな事態になるとは思ってもみなかった。ハッキリ言ってこれでは、なんのために表現規制に反対したり、下手くそながらもマンガ描いたりしたのか分からん! オレはまた負け札を引いたのかも知れない。しかし何もしないでいたら、「ぽっぽっぽ〜、はやぽっぽ〜」と歌いながらフルチンで往来を走り回るくらいバカだとも思うが。まだ描きたいものがあるので、物語の終焉が来たとは思いたくない。しかしオレの希望的観測は、ことごとく否定されて来たから、迂闊な事は言えない。さて、どうしたものやら。