走れ小心者 ARMADA はてなブログ版

克森淳のブログ。特にテーマもなくゆるゆると。

オレのマンガ道その8

 この記事の続き。前回書いたように再就職をしたはいいが、そこでもうだつが上がらず「オレは結局、何をやってもダメなのかなあ……?」と言う気持ちが強くなり、プロのマンガ家を目指すのは断念し同人活動に絞ろうと思うようになる。また、この時期呉市内のマンガ喫茶や無料スペースなどでネットを始めるようになったり、キャラショーの中の人のバイトから逃げ出したりする。

 そしてその頃広島の同人イベントで知り合ったある人物(前回の最後の方で触れた人物がこいつ)とその彼女に、しばらく生活をひっかき回される事になる。金づるにされたり、あちこちに無理矢理連れ回されたり……。そんな目に遭っていた2001年の5月頃、1995年から一年弱付き合いのあった今は亡き「惟任日向」さんにネットを通じて再会する。それにより前述のふたりとの関係を見直せる程度には精神が回復し、ほどなくしてふたりとの縁も切れ、その年の夏コミにサークル参加を果たす事となる。ヤハリ結果はかんばしくなかったけど。山咲梅太郎(うめたろー)さんと、ネットでやりとり始めるのもこの頃だったな。このあと、この記事で触れたように講談社フェーマススクールズの説明会に行ったりもしていた。まだマンガ家への道を、微妙に諦めきってなかったので。

 この年の冬に惟任さんと18禁同人誌を作っていた時、彼が「児ポ法*1が改正されたら、こんな事も出来なくなるだろうな」とか「捕まる時は一緒に捕まろうな」とか軽く言い出した。この言葉がきっかけとなって、「オレはもうマンガ家にはなれない。だが、後世のためにこの問題に立ち向かわねばならないのではないか? 内輪で愚痴を垂れるのではなくて!」と思い、表現規制問題に首を突っ込んだのだった。ちょうど同時期にパソコンを買い、自宅にネット引いたのもあって。

 そのあとウェブサイトを開いたり、表現規制反対活動を通してカマヤン(id:kamayan)さんと知り合ったり、同人誌を見た知り合いに「アイデアにスキルが付いて行ってない」と言われて凹んだり(このみっつは2002年)、惟任さんの勧めで精神科通うようになったり(2003年)、ブログを始めたり(2004年)、親父の失職で生活が苦しくなりコミケのための上京が出来なくなったり(2005年)、このブログを始めたり、親父や惟任さんと死に別れたり(このふたつ2006年)、精神病などの理由から退職したり、pixivを始めたり(このふたつ2008年)して現在に至る。

 さて、なんでこんな話をえんえん書き続けたのかと言うと、かつてみなもと太郎さんがある人に言われた、「先生、誰もデビュー出来なかったトキワ荘もあるんですよ」って言葉と似たようなものを語れやしないかと思ったものでね……。あくまでマンガ関係の話に絞りこんだので、今回は書いてない話もある。そのため時系列とかも一部いじったのだが、読みやすくするための措置としてご容赦ください。

 この話が、皆さんの他山の石になれば幸いである。そして最後に一言。

でも、まだやってるんだよ〜。
(ひとまず終わり)

*1:当時はこの略称は定着してなかったが、便宜上使用。