【ふと思い出した伊福部昭先生の御言葉】
— Salida/伊福部昭の仕事『怪談雪女郎』音楽完全配信 /CD『伊福部昭の純音楽』『黛敏郎の雅楽』 (@salida01) 2022年4月9日
かつて「人生は辛い」をテーマに踊った舞踊家がいた、という話題に際して、
「“人生は辛い”というのがひとつの思想なら、それをそのまま苦しげに踊ったのでは“中学生の作文”だ。その舞踊家が本当の芸術家だったら“ひょっとこ踊り”でもしたでしょうよ(笑)」 pic.twitter.com/X0lrLD6Zin
創作者として、重く受け止めねばならん言葉だ。主義主張のたぐいを生あるいは剥き身のまま入れても、作品にならんのは痛感したからな。それは創作より、ドキュメンタリーやノンフィクションの領域な気もするし。とは言え、創作する者がみな「ひょっとこ踊り」しか出来んのかと言う疑問も。そのさじ加減が、創作する者の課題だとも思うが……。と、書いたまま、一週間くらい放置しちまった。例によって、話が続かないんじゃ。しかし無理くり「主義主張のたぐいを生あるいは剥き身のまま入れても、作品にならん」事について話を向けよう。いい例が、小林よしのりの論説マンガだ。論説マンガを2ページでやってた頃*1はまだしも『新ゴーマニズム宣言』以降の凋落ぶりたるや。闘病ものであった『目の玉日記』は面白かったが、政治的な主義主張は料理の仕方がねえ……。小林は「オウム真理教に殺されかけた」と言っていたが、オウムはその時マンガ家としての小林よしのりを殺してしまったのかも知れん。こう言う先例があるから、冒頭の伊福部昭の言葉が余計に沁みてなあ。
小林よしのりはさておき、オレ自身の問題だよ! オレはいまだに剥き身の主義主張をぶち込んだ作品*2も「ひょっとこ踊り」も、世に出せてないような。そう言うのは、客観的に自作を判断出来るほど作品が見られたり読まれたりしてない証拠でもあるが、創作出来る時間はあまりない。還暦までと言う目処で執筆を続けるつもりが、世の中がおかしくなって来て、どうにも。さらに言えば、最近オレは心身ともに疲れが出て来たし……。あんなに喜んで通っていたサブカルビジネスセンター(以下、サブカルBC)への往復の道のりが、ずいぶんきつくなっちまったり、ひとりでいると創作どころでなく落ち込むのがぶり返したり……。身体作りの運動もしているが、泥縄な気もするし。それでも、創作活動が出来るうちはやっていたい。そうでなければこんな記事書いていやせん……。