どっかのアホウが「不快な表現を見ない権利」を主張したせいで、どっかの駅のロシア語表記を「不快だ」と言った奴に振り回され消したり、結局戻したりと言うギャグにもならない事が発生したではないか! 「不快な表現を見ない権利」へのオレの見解は、下記ツイート参照な。
「見たくない表現に触れない権利」って、拒否権や自己決定権の中にはある(自分の内面かつ個人的な決定でしかない)とは思いますが、公的な表現に圧力をかける理由としては弱すぎる気はします。 https://t.co/bGi6wBcObz
— 克森淳(a.k.a.新豊玉三郎) (@a_katu) 2022年4月11日
あ、ツイートでは「見たくない表現を見ない権利」だったわ。マー、問題の根っこは繋がっている気はするが……。もうちょい「見たくない表現を見ない権利」について、話を進めよう。上記ツイートにも少し書いたが、そう言うのは拒否権や自己決定権と言うべきではないか? そしてそれは、公的な表現への圧力としては弱いんじゃないか? なんでこんな事を言うかだが、2003年頃にも似たような話があって、その時から思っていたので。……これで、あらかた言い尽くした気がするけど、なんであんな題名にしたのかを言っておく。「見たくない表現を見ない権利」論争について、これ以上付き合いたくないからだよ。もっと言えば、今の表現規制問題にも「正直、付き合いきれないよ」と言う気持ちはある。今の規制推進派・規制反対派どちらにも、付いて行けそうにない。ずいぶん前から言っているが、それぞれが殲滅戦をやっているようではなあ。「お気持ち」としては反対派に寄っているが、手段やネットでの立論に疑問があって。と言うか、もしかしたら推進派・反対派それぞれに対立かなんかを煽っている煽動者がいて、両派ともに乗せられて自滅への道を進まされているのではとさえ思う時がある。「陰謀論でしかない」と言われればそれまでだが、ここ数年の表現規制問題に対する実感が、そう思わせるんだ。陰謀論めいた「煽動者」うんぬんを抜きにしても、推進派・反対派の共倒れが起きるんじゃないかと言う懸念は大きいが。対立を煽られんでそれなら、もっと悲惨だよ……。
と言ったところで、この記事終わる。これ以上、話の進めようがない……。