清義明氏の2ちゃんねる文化とQアノンの関係についての記事*1をざっと読んで思ったのは、ひろゆきは自分が管理人を勤める掲示板の言葉を銭に替えるのに長けていても、そこに踊る言葉への責任感は全くなかったのねと。その意味では、既存の大手マスコミと変わらんね……。ネットが個人の大きな武器だと言うのは、最初っから幻想だったんかな? いや、メディアに露出している時のひろゆきは、その場しのぎで言い返したように見えたり聞こえたりするだけの事しか言ってないから、算盤高いだけではダメなのかも知れない。
んで、これからのネットだけど、たぶん露悪主義ではやって行けない気がする。一時は「あざ笑う者」がネットで勝利したかのように錯覚してたけど、露悪に対抗する「きれい事」「建前」が必要になりそうで。その意味で、下記記事で「正しいこと」はあるとしても「正しい人」はいないと言う考え方を取り上げたんであって……。「露悪主義ではやって行けない」気がしたのは、もう露悪で物を語るのは限界な気がしたからだ。「キャンセル・カルチャー」がどうたらではなく、手の内がずいぶん割れたと思って。
それにしても、2ちゃんねるを良くも悪くも無名人の文化の集積だと思っていた過去の自分が恥ずかしい。オレたちは結局、ひろゆきの儲けのために発言していたのかと……。UNIX板の奮闘も「おまいのおかんをみせてみろ」も「ジョルジュ長岡」も*2、全て踊らされた結果かよと。いえね、前述のように、ひろゆきの行動が既存の大手マスコミと変わらんなら2ちゃんねると言う場やそこでのあれこれを見直さんといかんと思ったら、ついね。オレが「踊らされる」のを毛嫌いしすぎだとも思っているけど、かつて楽しんだものもあった*3以上は。と、書いていて、もっとげんなりする考えが頭をよぎったが、今それを書く余力はない。その代わり、一言。2ちゃんねるにおける言葉の軽さは、ある時オレの預かり知らぬところでオレの名前を出してスチャラカ空中戦をやってる連中を見て痛感した。それ以来2ちゃんねるに対して醒めたのはあったが、ひろゆきがQアノンを生んだような今となっては、それも。