とある障害当事者の方が「見た目とか話し方は完全に普通ですよ」と言われて際に、「だってそう振る舞わなきゃ差別するんでしょ?」と言っていた時の衝撃は今でも鮮明に覚えている。生涯忘れることはできないし、忘れてはならないと思っている。
— 隠者 (@egeLA5SLQPV55jo) 2020年3月14日
排除や悪意の対象にされるのが怖くて表面上必死に"普通"を装うのって心身共に本当に疲れるんですよ。
— 隠者 (@egeLA5SLQPV55jo) 2020年3月14日
当事者でもよほど"重度"の人で無い限りは大なり小なり普通を装って生きているから、「それなら誰でも障害者」「辛いのはあなただけじゃない」みたいな、励ましのつもりで相手を追い詰めるだけの言葉が出てきてしまうのかもしれないな。
— 隠者 (@egeLA5SLQPV55jo) 2020年3月15日
しかし、障害者雇用等もそうだけど、「待遇は"障害者なり"なのに求めるスキルや社会性は健常者とほぼ同レベル」という非対称性、「権利や自由を主張するより先に義務や責任を果たせ」というのと似ていて、そういう意味では凄く日本社会らしい発想だと思う。
— 隠者 (@egeLA5SLQPV55jo) 2020年3月15日
上記ツイートを精神障がい者のオレが見て思ったのは、やっぱり人に「普通」である事を強いている世間の「空気」こそ怖いし、そんな「空気」の中のうのうと生きていられる「普通の人」こそ、唾棄すべき存在かつ敵なのかも知れんと……。その「空気」を読んで生きてるところもあるオレが言っても、説得力ないけど。
話はそれるが、オレが今期鬼太郎の「ぬらりひょん編」に感じているある種の違和感は、妖怪が「危険な存在」として認知される過程で、そう思う「普通の人」たちはどんだけ偉いのかと言う疑問に通じている。それはマイノリティを描く近年*1のフィクションいずれもに言える事かも知れないけど。閑話休題。
話を上記ツイートに戻すが、まさしく「普通じゃない」と思われた事で、オレも酷い目に遭った。勤め先で殺されかかったりな。それはサブカルビジネスセンターでの『精神障がいエッセイマンガ』にも描いたし、このブログでも何度か言及したけど。そう言う経験から「排除や悪意の対象にされまいと表面上『普通』を装う」事もあった。しかしまず、世間の「普通の人」による「排除や悪意の対象にする事」こそ疑い、改めさせる必要があるのではなかろうか? どうすりゃいいのかは、まだ分からないが……。しかしだ、日本会議的な没論理が支配しているうちは、それは夢のまた夢かも知れん。だが、言わずにはおれんのだ! 自分が生きるために! 「普通の人」ども、覚えてろよ。一応ことわっておくが、オレは「普通」じゃない事が素晴らしいとか言ってるんじゃなく、「普通の人」が安穏とした暮らしを送るために排除の論理を使う怖さを言いたいのだ。
*1:あるいはもっと前。