アントニオ・サリエリの評伝を読んでいます。まだ前半部ですが、サリエリは12歳の時に母親を、14歳で父親を亡くしているんですね。裕福とはいえない油脂職人の家で育ち、教会オルガニストの兄に音楽の手ほどきを受けた彼は、亡き父親の知人に音楽の技量を認められて15歳で単身ウィーンへ移り住んだと。
— たられば (@tarareba722) 2019年9月18日
評伝にはウィーンでその利発さと音楽的才能を認められて宮廷音楽家やオーストリア大公に認められて技能を伸ばしたと書かれていて、それはそうなのだろうけど(そしてここからはやや思い入れの強いわたしの想像なのだけど)身寄りのないサリエリは「自分には音楽しかない、これにしがみつくしかない」と
— たられば (@tarareba722) 2019年9月18日
必死だったんじゃないかなあ。。。『3月のライオン』の零くんが将棋にしがみついて孤独に耐えて生きる術を見つけたように、「音楽で食えなければ生きてゆけないし誰にも認めてもらえない」という切迫した危機感が彼を支えていたのではないか。
— たられば (@tarareba722) 2019年9月18日
そういう環境で育って、38歳で宮廷楽長の地位を得たサリエリにとっては、3歳の頃から宮廷作曲家でバイオリニストの実父に才能を認められて欧州各地を旅してマリー・アントワネットなどにも引き合わされた(何より才能に満ち溢れた)モーツァルトと出会った時の感情は、筆舌に尽くしがたいだろうなと。
— たられば (@tarareba722) 2019年9月18日
サリエリにオレを重ねるのもおこがましいが、上記ツイートにならえば、オレもまた「絵を描く事」にしがみついているんだろうな。その甲斐はありそうだが。いえね、就労支援施設で描いた絵がTシャツになりそうで。詳しくは後日。それはさておき、サリエリに対するモーツァルトみたいな存在がオレにいなかったのは、幸か不幸か。と言うか、立ちはだかるかのような相手が、絵を描く上で現れなかったから今日まで続けられたのではと言う気持ちと、広く絵の世界を知るためには、そう言う相手が必要だったのではと言う気持ちが半々なのよ。イラスト系のハガキ職人でもやっていればまた違ったのかも知れないが、オレはそうはならなかった。その手の投稿をしなかったわけではないんだけど、ほぼ載らんかったんじゃ。その辺はクダクダしくなるから、別の機会に。
しかし考えてみると、オレは絵やマンガで勝負をしかける事をあまりしてなかったような。それにはいろいろ理由があったが、環境が悪すぎたのが一番大きかったな。それも書くと出来の悪い豆腐みたいにぐずぐずとなるから、割愛する。さておき、絵にしがみついていたから、就労支援施設の門を叩き、いろいろやっているんだが、それをやっていない時の空疎さよ。どうしてこんな事になってしまったんでしょうね?