走れ小心者 ARMADA はてなブログ版

克森淳のブログ。特にテーマもなくゆるゆると。

週刊金曜日的な文明忌避とか

 今出ている週刊金曜日に、『ネット依存社会』と言う特集があって少し読んだが、斎藤貴男がネットは「人類には100年早かった」とか言っていてげんなりした。そんな事言っていたんじゃ、何も出来んぞ。そうでなくても週刊金曜日は自動車を全廃せよと言う読者投稿やビデオゲームを全否定する読者投稿を載せたり、本多勝一の『貧困なる精神』や有名な『買ってはいけない』などに、文明忌避としか言えない論調が出たりするってのに。それは決して建設的とは言えないし、ネットへの意見に限定しても、それではマトモな意見の持ち主が発言しにくくなるだけではなかろうか。

 同特集では鈴木邦男が、「ネットをやりはじめたら自分が興味のある事柄しか読まなくなる」だろうからやらないと言っていた。これはむかし笑福亭鶴瓶パペポTVで「インターネットや電子手帳では、検索した事しか出て来ない。手帳を開いて『ああこいつ、長い事会(お)うてへんな』と思う事も大事」と言っていたのと通じるものがあるのではなかろうかと。ネットは「寄り道」しづらいんだよ、それは認める。てなわけでちと「寄り道」をするが、鈴木邦男が興した一水会木村三浩が、猪瀬直樹都知事徳洲会から金を借りた現場に居合わせたのはなんでや? 徳洲会の徳田虎男の伝記マンガに、徳田虎男は大本教がその出現を予言していたとか言う記述があったみたいだが、保守と宗教の癒着が関係してんのか?

 話を戻して、斎藤貴男の言い方ではメディア・リテラシーは育たん。それはトライ&エラーから生まれるから、単にネットを忌避しているだけじゃダメなのだ。それにスマホで多くの人が見ている情報がしょうもない物だとしても、イエロージャーナリズムはネットが普及する以前からあったんだし。

 あと、これはまだ自分の中で上手く消化出来てないけど、ネットで視野が狭くなるのは、「田舎者」が田舎の価値観に染まる過程と似たようなものではと。ネットにある知性蔑視やミソジニーゼノフォビアは、田舎にいくらでも転がっているんだし。あるいはネットが、「田舎者」の接着剤になったのか。この辺りはまた後日考えよう。